去る1月9日、昨年限りでの現役引退を発表した藤枝MYFCのGK六反勇治。高卒でプロ入りしてから20年間、J1からJ3まで全てのカテゴリーでプレーし、38歳になっても「まだやれる」と惜しむ声は多かったが「プロのレベルでやれるとは思いますが、自分の基準には達しなくなったので」という理由で引退を決断した。
2011年には福岡がJ1に昇格し、17試合に出場して実力を認められ、2012年には横浜F・マリノスに移籍。横浜FMでの3年間は出番を増やせなかったが、J1の優勝争いや天皇杯制覇(2013年度)も経験した。そして仙台へ移籍した2015年に正守護神の座をつかみ、同年7月に念願の日本代表にも初招集された(出場はなし)。
その後、2017年に移籍した清水でもGKの軸として活躍し、2018年のホーム最終戦(33節)では、後半アディショナルタイムにCKからヘディングで劇的な同点ゴールを決め、J1では22年ぶり2人目のGKによる得点として大きな話題となった。
清水サポーターの伝説にもなっているこの得点については、「良い思い出ですし、引退した後にあれが自分のハイライトシーンになるなと思いました(笑)。でも、あの試合は兵働(昭弘)くんの引退試合でしたし、GMをやっていた久米(一正)さんが前日に亡くなった後だったので、勝ち切れなかった悔しさのほうが強く残ってますね」と振り返る。
また翌2019年には、オーバートレーニング症候群を患って、秋から清水に籍を置いたまま藤枝でトレーニングを続けた時期もあった。
そして2020年から横浜FC、2024年にFC琉球(J3)、2025年に藤枝と計7クラブでプレーしてきた。昨年は「自分が苦しいときにお世話になった藤枝MYFCに恩返ししたい」と静岡に戻り、一昨年に負った負傷の影響もあって公式戦での出番を得られず悔しさも味わったが、若い後輩GKたちやフィールドプレイヤーたちにプロとしての範を示し続けた。
「本当に懐かしい仲間や若い選手からたくさん連絡をもらって、『あのときのあの言葉で救われました』というようなことを言ってくれた選手も多かったんですよ。僕自身は言ったことを全然覚えてなかったですが(笑)、そう言ってもらえてすごく幸せだなと感じましたし、自分のサッカー選手としての生き方が良かったのかなと感じることができました」(六反)
練習日はクラブハウスに行く時間が人よりも早く、後輩たちを食事に誘うことも多かった。そんな場での何気ない会話の中から、悩める選手たちの救いになる言葉を無意識のうちに紡ぎ出していたのだろう。ただ、年下の選手に対しても自分の子どもに対しても、自分の考えを押しつける、決めつけるということは一切なかった。
「親とか先輩って彼らより長く人生を歩んできて、自分のほうが人生の正解を知っていると思いがちですけど、逆に若い人のほうが僕らを越えていく可能性を持っていると思うんですよ。だから、若い選手や子どもたちの自由を残すとか発想を尊重するということをせずに僕が何か決めてしまうと、僕ぐらいにしかなれないというか……若い選手には僕のキャリアを軽く越えていってほしいと思うので、そこは意識してますね」(六反)
自分自身も無名の存在から代表候補にまで登りつめてきた過程で、先輩たちから自分の可能性を信じることの大切さを教えられてきた。熱心な読書家でもあり、20年間のプロ生活で培ってきた柔軟で自由な人生哲学は、彼の大きな財産となっている。
「一つは教育関係や青少年育成の分野ですね。サッカーに限らずスポーツ全般を通しての教育・育成という部分にはすごく興味があります。子どもたちや親御さんに向けての講演会なんかもやれたらいいなと思ってますし、究極で言えば幼稚園・小学校の一貫校を作りたいという夢もあります。資金やハード、ソフトの両面でもハードルが高すぎるので、今すぐにというわけにはいかないですけど(笑)」(六反)
そうして自らの事業を軌道に乗せ、「お世話になったクラブのアカデミー部門にスポンサードしたりして恩返しをしたい」という想いもある。「現役生活で一番の印象に残っている瞬間は?」という質問の答えにも、彼らしさがあふれていた。
「劇的なゴールでもなく、自分がシュートストップした場面でもなく、試合の日はキーパーが一番最初に(ウォームアップで)ピッチに出ていくんですが、その瞬間のサポーターの声量とか熱気、1人1人の顔というのが一番残ってますね。マリノス時代の優勝争いに絡んだ試合とか、エスパルス時代の残留がかかった試合とか、サポーターの強い想いが表われた顔というのは、すごく覚えています」(六反)
そうしてサポーターやチーム関係者をはじめ多くの人たちの恩を実感しながら、選手としても人としても自らを高め続けて来た20年間。ワールドカップ出場という目標は果たせなかったが、引退発表後に会ったときの表情は本当に清々しいものだった。
「自分が納得いくサッカー人生を歩んでいこうというふうにずっと思ってきましたけど、想像以上にいろんな言葉をもらえて、選手、サポーター、関係者の方々にも本当に恵まれたサッカー人生だったなと。しみじみとそう感じられた引退発表からの3週間でした」(六反)
今後どんな仕事をしていくにしても、サッカー選手のセカンドキャリアの可能性を大きく広げてくれそうな期待感は大きい。また副業としては、DAZNのサッカー中継で解説を務めることが決まっているので、彼の生の声を聞く機会は早々に訪れるはずだ。
Reported by 前島芳雄
J1で2人目のGKによるゴールも記録
六反の経歴を簡単に振り返ると、鹿児島県出身で本格的にゴールキーパーに転向したのは熊本国府高校に入ってからだったが、高卒時にアビスパ福岡から熱心な誘いを受け、大学進学と迷いながらも2006年にプロ入り。公式戦の出場がなかった20歳頃に「サッカー選手である以上、ワールドカップ出場を目指さないと意味がない」と目標を定めて全力で下積みを重ね、4年目でついにリーグ戦デビューを飾って15試合に出場。2011年には福岡がJ1に昇格し、17試合に出場して実力を認められ、2012年には横浜F・マリノスに移籍。横浜FMでの3年間は出番を増やせなかったが、J1の優勝争いや天皇杯制覇(2013年度)も経験した。そして仙台へ移籍した2015年に正守護神の座をつかみ、同年7月に念願の日本代表にも初招集された(出場はなし)。
その後、2017年に移籍した清水でもGKの軸として活躍し、2018年のホーム最終戦(33節)では、後半アディショナルタイムにCKからヘディングで劇的な同点ゴールを決め、J1では22年ぶり2人目のGKによる得点として大きな話題となった。
清水サポーターの伝説にもなっているこの得点については、「良い思い出ですし、引退した後にあれが自分のハイライトシーンになるなと思いました(笑)。でも、あの試合は兵働(昭弘)くんの引退試合でしたし、GMをやっていた久米(一正)さんが前日に亡くなった後だったので、勝ち切れなかった悔しさのほうが強く残ってますね」と振り返る。
また翌2019年には、オーバートレーニング症候群を患って、秋から清水に籍を置いたまま藤枝でトレーニングを続けた時期もあった。
そして2020年から横浜FC、2024年にFC琉球(J3)、2025年に藤枝と計7クラブでプレーしてきた。昨年は「自分が苦しいときにお世話になった藤枝MYFCに恩返ししたい」と静岡に戻り、一昨年に負った負傷の影響もあって公式戦での出番を得られず悔しさも味わったが、若い後輩GKたちやフィールドプレイヤーたちにプロとしての範を示し続けた。
「僕の言う通りにしても、僕を越えられないので」
そんな六反に引退後の想いを聞くと、発表後に嬉しい驚きがあったと言う。「本当に懐かしい仲間や若い選手からたくさん連絡をもらって、『あのときのあの言葉で救われました』というようなことを言ってくれた選手も多かったんですよ。僕自身は言ったことを全然覚えてなかったですが(笑)、そう言ってもらえてすごく幸せだなと感じましたし、自分のサッカー選手としての生き方が良かったのかなと感じることができました」(六反)
練習日はクラブハウスに行く時間が人よりも早く、後輩たちを食事に誘うことも多かった。そんな場での何気ない会話の中から、悩める選手たちの救いになる言葉を無意識のうちに紡ぎ出していたのだろう。ただ、年下の選手に対しても自分の子どもに対しても、自分の考えを押しつける、決めつけるということは一切なかった。
「親とか先輩って彼らより長く人生を歩んできて、自分のほうが人生の正解を知っていると思いがちですけど、逆に若い人のほうが僕らを越えていく可能性を持っていると思うんですよ。だから、若い選手や子どもたちの自由を残すとか発想を尊重するということをせずに僕が何か決めてしまうと、僕ぐらいにしかなれないというか……若い選手には僕のキャリアを軽く越えていってほしいと思うので、そこは意識してますね」(六反)
自分自身も無名の存在から代表候補にまで登りつめてきた過程で、先輩たちから自分の可能性を信じることの大切さを教えられてきた。熱心な読書家でもあり、20年間のプロ生活で培ってきた柔軟で自由な人生哲学は、彼の大きな財産となっている。
学校を作るという壮大な夢も
今後の道については、当然のようにGKコーチとしての誘いをいくつか受けているが、まだじっくりと考えているところだ。ただ、やってみたいことはいくつかあると言う。「一つは教育関係や青少年育成の分野ですね。サッカーに限らずスポーツ全般を通しての教育・育成という部分にはすごく興味があります。子どもたちや親御さんに向けての講演会なんかもやれたらいいなと思ってますし、究極で言えば幼稚園・小学校の一貫校を作りたいという夢もあります。資金やハード、ソフトの両面でもハードルが高すぎるので、今すぐにというわけにはいかないですけど(笑)」(六反)
そうして自らの事業を軌道に乗せ、「お世話になったクラブのアカデミー部門にスポンサードしたりして恩返しをしたい」という想いもある。「現役生活で一番の印象に残っている瞬間は?」という質問の答えにも、彼らしさがあふれていた。
「劇的なゴールでもなく、自分がシュートストップした場面でもなく、試合の日はキーパーが一番最初に(ウォームアップで)ピッチに出ていくんですが、その瞬間のサポーターの声量とか熱気、1人1人の顔というのが一番残ってますね。マリノス時代の優勝争いに絡んだ試合とか、エスパルス時代の残留がかかった試合とか、サポーターの強い想いが表われた顔というのは、すごく覚えています」(六反)
そうしてサポーターやチーム関係者をはじめ多くの人たちの恩を実感しながら、選手としても人としても自らを高め続けて来た20年間。ワールドカップ出場という目標は果たせなかったが、引退発表後に会ったときの表情は本当に清々しいものだった。
「自分が納得いくサッカー人生を歩んでいこうというふうにずっと思ってきましたけど、想像以上にいろんな言葉をもらえて、選手、サポーター、関係者の方々にも本当に恵まれたサッカー人生だったなと。しみじみとそう感じられた引退発表からの3週間でした」(六反)
今後どんな仕事をしていくにしても、サッカー選手のセカンドキャリアの可能性を大きく広げてくれそうな期待感は大きい。また副業としては、DAZNのサッカー中継で解説を務めることが決まっているので、彼の生の声を聞く機会は早々に訪れるはずだ。
Reported by 前島芳雄